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徐福伝説

徐福伝説とは中国で秦の始皇帝が存在していた頃の話である。当時、道教の修行者が始皇帝に取り入っていて、不老不死の話をしたらしい。始皇帝は死にたくないので、蓬莱の国にそういうものがあるらしいからと、徐福に命じて取りに行かせたのだ。徐福にしたら寝耳に水の事だったろうが、とにかく日本を目指してくるわけだ。徐福が日本に来たのは孝霊天皇の紀元前千二百年ころである。この、徐福到来の地は日本全国にあるが、丹後にも存在する。

伊根町新崎に丹後徐福の会会長・石倉氏がいる。過去に「世界ふしぎ発見!」からも取材があり、一時、世間の注目を浴びた事もある。今回は、その石倉氏を訪ねた際の話をご紹介したいと思う。

石倉氏宅の前には徐福上陸の地と言われ、徐福が祀られている新崎神社がある。巨大な磐座は上陸した徐福が一夜を過ごした場所だと言われている。十二月下旬だというのに足元には徐福が求めたという仙薬「黒茎のよもぎ」が緑の葉を残し生えていた。よもぎを紡ぎ、遊歩道沿いに先端まで歩くと、あたり一帯はいつの頃か流れ出したかしれない溶岩で覆われ、たとえ漂着できたとしても、無事に上陸出来そうにない程の荒れ果てむき出しの険しい岩肌となる。その岩肌に、すさまじい勢いで日本海の荒波がぶつかり砕け散る。中国大陸からたどり着いた徐福の一団は、この荒波をどのようにしのいだのだろうか。それとも二千年前だから、現在の地形とは変わっていたのだろうか。そんな疑問を抱きながら降り始めた雪の中を石倉氏宅へ向かった。

石倉氏との対話

徐福伝説は日本各地にありますね。例えば熊野や佐賀や愛知にもあるし、色々な所にあります。その中で、この丹後が本命であると特定される理由をお聞かせ下さい。

石倉:そうですね。やっぱり背景でしょうね。丹後が持っている背景。実は日本徐福の会という会があるのです。その会には、学者や作家の先生方が多くいらっしゃいます。それから、徐福伝承の残っている地方の研究家がたくさん参加されます。日本で集会を持ったり、中国に徐福の足跡を訪ねたりという活動をしています。そういう方々と話をすると全国には色々な徐福の話があるのですが、丹後の背景が一番いいです。

具体的にはどのような風にいいのですか。

石倉:渡来の伝説がたくさんあります。鬼も渡来の伝説だと見ていますし、羽衣伝説もあるし、浦島伝説もある。タジマモリだとか、アメノヒボコとか海の外からやって来た者の伝説が多いですね。それから、考古学的にもいろいろな物が出ています。古い鏡もたくさん出ています。もちろん、この地方だけではなく、出雲の方から若狭にかけて渤海からも入ってきているわけです。

大陸にはこの地方が一番近いですよね

石倉:そうなんですよ。九州や熊野にも徐福の足跡は残っていますけど、ぐるっと回らなければいけないでしょう。距離的にも丹後が一番いいのですね。先日もなぜ敦賀に迎賓館があったのだろうと言う事になったのですよ。よそからくる国使と呼ばれるお客さんを迎える館が、どうして敦賀にあったのか。

敦賀にあったのですか

石倉:そうです。瀬戸内海をまわって大阪に入るのではなくて、全部敦賀に集めておいて、そこから都にお連れしたのですね。

それはいつの頃の話ですか

石倉:渤海国との交流があるようになった頃からの話です。いろいろな物がこの地域にはあったようですから。地方の方の話を聞くと、皆それぞれの地が本拠地だと主張されるんですが、伝説、古墳や出土品などを比べると、やはり丹後こそ本命と言わざるを得ないのです。

問題にならないと

石倉:丹後の出土品の質と量が素晴らしい事から見ても、徐福さんが来ても当然のところ疑う余地のない事だと考えています。丹後の歴史がもっとも花開いたのは四〜五世紀の古墳時代です。その頃からすると徐福さんの場合は紀元前二世紀頃ですから、五百〜六百年くらいの間がありますね。ですけど、二百メートルクラスの前方後円墳のような文化が一朝一夕に育つものではないでしょうし、そうすると、やはり 五百〜六百年の歳月が必要であるといえますね。ということは徐福さんが渡来した頃に、何千名という渡来人があったのではないでしょうか。そして、たまたま司馬遷の「史記」に徐福という名がのったために、徐福さんが渡来人の代表として有名になっただけで、言ってみれば大勢の徐福さんがいたわけです。意図的に目的を持ってきた方もいただろうし、難破して流された方もいただろうし、とにかく当時たくさんの方々が入ってきたわけです。

その方々が丹後に貢献されたということですか

石倉:貢献されたのでしょうね。しかし、そのとき海の外からきた方々を受け入れた側が大事ですね。それを拒否しないで受け入れた。そして今まで持っていた文化と、外から入っていた文化とを融合させて、新しい文化を丹後に育てたわけですから。だから丹後の古代人に対して偉かったと褒めてやりたいです。そうゆう点は、現代人が学ばなければならないことですね。

中国語いや秦語と日本語ですからね。懐が深かったということでしょうね。

石倉:そうですね。それから、丹後から若狭にかけて五〜六世紀の頃は、現代よりずっと来やすかったのではないかと見てるんですよ。

いや、さっきも徐福が着岸したという海岸を見てきましたが、ずいぶん上陸地点としては険しい所ですよね。水位がもっと高かったのですか。

石倉:そうでしょうね。この地方は陥没したり隆起したりしているのです。だから山の上の高いところに貝殻などたくさんあって、かつて海だったということがよくわかります。だから今を見て古代を推し量るのは非常に危険です。しかし、調べてみますと、間人でも久美浜でもそうですが、この辺の海は潟なんです。干潟です。入り江になっていて川がある、そういう所が船の出入り口になっているんです。そして、そのすぐ沖には対馬海流が北上している。ところが、この伊根には大きな川がないのです。でもなぜ新井崎に上陸したかというと一つの仮説を立ててみたのですが、それは「冠島」と「沓島」があるということです。

あそこが中継地点ということですか

石倉:はい、あそこが目印ですね。冠島と沓島は、いわゆる「戸海仙」(しかいせん)という死んで冠や沓、衣類を残して身体だけは仙人になっていくという術があるということです。

生きながらにして天に昇ってしまうという究極の技ですね

石倉:はい。冠島と沓島の真ん中には「くり」があるのです

くりとは

石倉:海の中に隆起している山のことです。それを「くり」というのです。くりの横には、よく魚がついたりしている事が多いので、くりの上に立って魚を釣ったりします。くりは時には海面にでている物もあって、大きくなると島になるのですね。それで冠島と沓島の真ん中には「中ッ神」というくりがあって、海面すれすれのくりなんです。これが隠れた身体の象徴だと解釈しています。それから冠島ですけど、別名常世島とも大島とも呼ばれていますが、冠島の北側に岩があって、これがものすごく大きな岩で立神という岩です。それは行ってみたらびっくりしますよ。

磐座のようなものですね

石倉:はい、あの世とこの世の境になるもので、あの世を拝む場所であると位置づけられています。つまり常世の島(冠島)で、あの世を拝むのだと。それともう一つは、天道信仰・太陽の信仰がここにはあります。新井崎神社と冠島と福井県の御神島は、東へ三つ並んだ神様で、秋分と春分の日に三つの神様の連なった延長線上から日が昇るのです。それから、冠島は色々な呼び名があると言いましたが、実は老人島とも呼ぶのです。そして、そこの神社は老人島神社といいます。生きながら仙人になっていくという道教の「戸解仙」につながるような名です。そして、祭神はアメノホアカリノミコトです。天孫ですね。しかも、ニニギノミコトがアマテラスに言われて降りてきたのと同じように、丹後の一ノ宮では前漢・後漢の鏡、息津・辺津の鏡を持ってアメノホアカリノミコトが冠島に降りてきたと言われています。だから、一ノ宮ではあそこを海の奥宮だと位置づけているのです。それで面白いことに、お宮さんの鳥居は南向きなのですが、入っていくと、お宮さんは正面を向いているのではなく西側を向いているんです。この新崎神社は、まっすぐ東向きなのです。

合わせ鏡のようになっているのですね。

石倉:そうです。舞鶴の方の伝承では新井崎さんと大島さん(冠島)は夫婦だといっています。だいたい島の神さんは女神さんだと言われているんですが、大島さんも三月三日に船に乗って新井崎さんに会いに来ると言われています。ここの神さんは若狭湾一帯の漁師の中では信仰の厚い神さんで、漁師は春になると必ず島巡りをします。あの島は本当は上陸禁止地区なんですが、特別に許可を得て、のぼりを立てて御神酒を持って登ります。島の中にはたくさんの神様と仏様が祀ってありますよ。ですから全体のいきさつを知ろうとすれば、徐福さんのことだけでなく、外から入って来た方々つまりアマベ(海部=アマ族)の事を勉強しないと、なかなか理解が難しいかもしれませんね。

アマベ(海部)はもともと九州にいて、その後若狭湾に入ったという説や、出雲島根に入って、その後、丹後に入ったという説などがあります。

石倉:尾張の方にもありますよね

ところで徐福だけではなく秦の始皇帝もやって来たという話は本当ですか

石倉:いえ、徐福は口上分乱の兆しがあると諫言したが聞き入れられず困って不老不死の仙薬を求めて、始皇帝と妃の像をもって渡来したという話です。

木像かなにかですか。

石倉:そうですね。しかし、そのご神体は見たことがないのですよ。

今どこかにあるのですか。

石倉:あるのです。新井崎神社の中に、ご神体としてあるそうなのです。聞いたところによると三十センチくらいの童男童女であるということです。ですから二体あるという事ですね。それを拝んだ事があるのは年寄りの宮司だけで、他は誰も見たことがなく門外不出なんです。

しまっていて見れないのですか。

石倉:はい、きちっとカギがかけてあります。

それが秦の始皇帝の像だというのですね。代わりの像であるという説もあるし、中には始皇帝は上陸して餓死したのだという説がありますよね。

石倉:そうそう。伊根浦鷲見崎に漂着し餓死したという話も聞いています。しかし、これは異説です。だいたい、この地方に伝わっているのは、易でこの地を予知し、薬を求めて漂着したというもので、その薬は何かと言うと「九節の菖蒲」と「黒茎のよもぎ」であったということです。そして渡来した徐福はとても有能な方だったので、神様のように村人を導いた。その後、言い伝えでは村の長になって、死んだ後には産土神になったということです。

その産土神が新井崎神社に祀られているのですか

石倉:そうです

そうすると祭神は徐福ですか

石倉:徐福だと言われています。

だから整理すると、徐福が来る前に何か祀られていて、それはどうもアメノホアカリらしいと。しかし、徐福は大変な功績を残したので産土神として祀られたんだということでしょう。

新井崎神社 交通 宮津、天橋立駅より丹海バスにて丹後半島線廻り日出下車、またはタクシーで60分 ポイント 徐福上陸の地。黒茎のヨモギ。巨大な磐座

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